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1941年から1979年、創業・成長期。
昭和16年9月26日。
太平洋戦争への暗雲漂う戦時一色の最中、当社は有限会社神戸マツダモータースとして産声を上げました。
創業者で当時社長の橋本重雄です。
神戸マツダモータース創業前の橋本モータース時代、昭和6年から49年間、社長職を務めました。
創業時の当社は現在の兵庫区東柳原町ではなく、生田区相生町でした。
この相生町時代の写真がほとんどないのですが、唯一、建物が写っている貴重な写真がこれです。
建物の壁面にマツダモータースの看板が見えます。
三輪トラックに乗っておられるこの方は創業時のメンバーです。
そしてその、2ヶ月半後の12月8日。真珠湾奇襲攻撃により開戦となりました。
その翌月、昭和17年1月ごろから当社の社員宛にも召集令状が届き始めました。
創業時、11名の社員が出征によって、一時は4名まで減少し、また、東洋工業も軍需工場指定により新車の生産も止まっていました。
部品の調達もままならないなか、残った社員で整備専門で奮闘しておりました。
重雄の言葉では、「八方塞で薄氷を踏むが思いの毎日であった」と資料に残っています。
そんななか、1年が経過し記念すべき第1回目の決算の日を迎えます。
第1期決算報告書の1ページにあります文章の1部が記録にありましたので紹介します。
「当社は、小型三輪車の販売並びに修理業の目的を持って設立なしたるところ、会社設立なお日浅きため、初期の目的を達し得ざるも多少の利益を得たり。」
多少の利益とは2,481円でした。
時は戦争中、昭和20年には神戸大空襲により神戸市内は壊滅的な被害を受けました。
そして昭和20年8月、広島と長崎に原爆投下があり、終戦を迎えました。
程なく、従業員が相次いで復員し会社は再び活気を取り戻し、戦後混乱の中、無からの再出発となりました。
そして、昭和24年10月、当社の拠点第一号、尼崎出張所を出店。
当時の世の中の動きとしましては、朝鮮動乱勃発による特需景気。
また、NHK紅白歌合戦が始まった時代であります。
自動車業界では、兵庫マツダ会の発足、これは現在の販売協力店会の前身です。
また、兵庫県自動車整備振興会ができましたのもこの時代です。
当時の商品を見てみましょう。
昭和24年にマツダ号GB型三輪トラック、昭和25年にLB型三輪トラックが発売。
昭和25年の朝鮮動乱は日本経済の流れを大きく変え、本格的な戦後復興が始まりました。
昭和26年には新車累計販売台数が1千台を越え、従業員も37名と増加、狭い相生町の旧本社から東柳原町の現在地に移転しましたのも昭和26年のことです。
国道2号線に面した現在地に木造モルタル2階建て。
展示場、部品庫、整備工場、事務所、他、建坪123坪を立体的に有効利用できる構造となっておりました。
昭和28年、当社の第2号拠点として、灘出張所を開設。
昭和30年代前半の世の中の動きとしましては、神武景気による高度経済成長時代であり「もはや戦後ではない」と言われておりました。
カラーテレビ放送が開始、国民所得倍増計画。
東洋工業は新型車を続々と発表し、三輪商用車全盛の時代です。
昭和32年、新車累計販売台数は1万台を突破、社員数も296名に増加。
そして昭和34年、K360の発売、昭和36年R360クーペの発売、昭和37年キャロルの発売。
4輪軽乗用車市場へ本格参入となります。
昭和34年12月。
東洋工業が乗用車市場に進出するに伴い、第二チャンネルとして株式会社マツダオート兵庫を設立。
昭和36年。創業から20年。
設立当時5万円であった資本金が5000万円となり、尼崎、灘に続いて4店舗の出店。
新車販売台数も年間10,000台を越える規模となり、破竹の勢いで設備投資を続行した時代です。
このころ橋本重雄の信念でもあった「企業は人なり」、そして人材を招致するにはそれなりの器が必要との発想から再度新社屋建設構想が持ち上がりました。
勇気のいる重大な意思決定でありましたが、役員会で熱い議論を尽くし、東洋工業との協議も整い、昭和36年5月に着工しました。
そして1年3ヶ月の工期をへて昭和37年8月落成となりました。
8月4日竣工式当日は、午前9時20分、日の丸はためく正面玄関で橋本重雄によるテープカットに始まり、兵庫県知事、地元財界人ら著名人4百数十名を招いて盛大且つ厳粛に挙行されました。
当時、阪神高速道路の高架も無く、この圧倒的な巨大ビルは、神戸新聞会館か神戸マツダモータースか、または西日本一かと言われたほどでした。
昭和30年代後半から40年代前半の世の中の動きです。
いざなぎ景気、万国博覧会の開催、他。
東洋工業は、コスモスポーツをはじめとしてロータリーエンジン搭載車を続々と世に送り出します。
昭和46年、創業30周年。
新車累計販売台数20万台突破、Uカー累計販売台数10万台を突破。
世の中の動きといたしましては、札幌冬季オリンピック開催、沖縄返還、そして自動車業界に大きなダメージを与えることになる第一次オイルショックが昭和48年。
当時の商品は、カペラ、グランドファミリア、サバンナ 他です。
昭和48年10月。
国際石油資本による日本向け石油輸出の削減通知は「オイルショック」として日本経済を直撃いたしました。
自動車業界の受けた打撃は大きく、ロータリー車の増販に期待を寄せていたマツダグループは大きな被害を被り、東洋工業の経営基盤を揺るがすまでに発展いたしました。
日本経済はインフレに拍車がかかり、「狂乱物価」「便乗値上げ」という言葉が生まれ、インフレーション抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などを抑制する政策がとられた結果、昭和49年にはマイナス1.2%という戦後初めてのマイナス経済成長を経験し、高度経済成長時代がここに終焉を迎えました。
社会では、・トイレットペーパーや洗剤などの買占め騒動・デパートなどのエスカレーター運転中止・テレビの深夜放送休止・企業の新規採用の中止・週刊誌や雑誌のページ数削減・ネオンサインの早期消灯・ガソリンスタンドの日曜休業等、日本国内は大混乱となりました。
当社では、需要が急激に減退する環境の中で、シェアを維持し採算を確保していくには販売力の補強が急務でありましたが、当時は人件費の高騰に備えて思い切った人員圧縮策を講じ、縮小均衡を指向していました。
新人の定期採用を4年間にわたって中止したのもこの時期であります。
このため、昭和50年には新車、Uカー合わせた営業戦力数がピーク時の320名から160名へと半減しており、販売戦力の衰退は歴然たるものがありました。
東洋工業では、国内の在庫消化と生産調整を目的に「AM」出向1090名のディーラー派遣を英断し、即時実行されました。
昭和50年1月から、当社に対しても第一次出向20名の派遣が実施され、以降第7次まで継続されました。
この間、合計99名の方々に日夜を問わず拡販に向けて協力いただきました。
昭和53年2月から、「SE」と名称改め全国に5000名、当社に93名の派遣が実施され、正に製造販売一体となって、この難局に対処いたしました。
拡販への力強いインパクトとなり、お客様はその後も引続き固定客としてお取引いただいております。
当時の商品は、コスモAP、サバンナRX-7他、です。
昭和50年代後半の社会の動きは、第2次オイルショック、ポートピア博覧会開催、他です。
そして昭和55年、ファミリアBD1051が発売され、大ヒットしました。
1980年から1999年、拡大発展期。
1980年、昭和55年5月。
橋本重雄が会長に就任。
社会環境激動の中で橋本一豊が社長に就任しました。
世の中の動きとしては、昭和天皇の崩御により昭和から平成へ、ベルリンの壁崩壊、そしてバブル景気が始まります。
創業から40年が経過。
昭和56年に新車累積販売台数30万台突破、昭和57年にUカー累積販売台数が30万台を突破。
昭和50年代後半の商品は、RX-7 、ペルソナ、ルーチェ他、ご覧のとおりです。
昭和57年からマツダグループのインターナショナルな動きの中で、イメージアップを目指して新しい系列の展開が始まりました。
フォードとの共同戦略で誕生したオートラマ系を皮切りに平成元年には我が国特有で根強い顧客層を持った軽自動車を扱うオートザム系、より高級感を求めたユーノス系、さらに、これより2年遅れてマツダオート系がアンフィ二系へ改称し、一方でマツダ色を強力にアピールしながら、他方ではマツダ色を払拭する政策が取られて5チャンネル体制となりました。
当社でも、それぞれの系列に1社ずつ関連会社が設立され、県下に大きな企業グループを形成するに至りました。
平成元年にロードスター、そしてキャロルを発売。
平成3年、創業50周年を迎えます。
当時の社内の出来事は、(株)オートザム兵庫、(株)ユーノス神戸の設立、そして3年連続のマツダ経営優秀賞の授賞です。
平成3年から平成12年の世の中の動きをまとめてみました。
バブル崩壊、湾岸戦争勃発、そして阪神淡路大震災が発生しました。
ルマン24時間耐久レースでマツダが日本車で初めて優勝したのは平成3年です。
当時の商品は、プロシードマービー、ユーノス500、フレンディ他です。
ここで、大規模な災害が発生しました。
阪神淡路大震災についてふれておきましょう。
当社も甚大な被害を受けました。
本社ビル半壊で明石営業所内に仮本社設置。
神戸、長田、三宮、灘の各店が全壊。
プレハブ事務所を設置または応急修理により営業継続。
被災後1年間にかかった復旧費用は約29億円に膨らみました。
その丁度、1ヵ月後の2月17日。
創業者、橋本重雄が永眠いたしました。
時代は2000年。熟成、変革期。
2000年、平成12年1月、橋本一豊社長が会長に就任。
橋本 覚が社長に就任しました。
橋本覚社長就任時の社会背景は、バブル崩壊後の長期にわたる景気低迷に加えて少子高齢化等の構造要因による長期的な需要の減退が叫ばれていました。
当社は肥大したグループ企業の統廃合並びに人員削減、戦略的店舗統廃合計画によるネットワークの見直し、お客様とのつながり強化に向けた積極的なイベント展開。
お客様満足度向上に向けた徹底した社員教育など経営効率改善に向けて、抜本的な構造改革を進めておりました。
そして、2000年6月。
グループ3社を合併し、トータルカーライフアドバイザーを目指して新生神戸マツダが誕生。
経済環境は依然厳しい中ではありましたが、お客様とのつながり強化に向けて、マツダオータムキャンプ2000、店舗では、ショールームコンサート、BIG特設展示会等を開催しました。
世の中の動きといたしまして、USJが開園、9.11アメリカ同時多発テロ事件、そして平成20年9月のリーマンブラザーズの破綻がありました。
創業から60年。
社内の出来事は、橋本社長の社長塾スタート、CSプログラムの開始、店舗呼称を営業所から店に変更。
マツダがニューコンセプト、「zoom-zoom」を発表。
子供のときに感じた動くことへの感動、こんなワクワクする気持ち「zoom-zoom」に満ちた、心ときめくドライビングをマツダはお届けいたします。
平成12年から17年当時の商品群です。
トリビュート、アテンザ、デミオ、アクセラ他です。
そして、2004年4月。
マツダ部品兵庫販売株式会社を合併し、資本金は15億9600万円となりました。
これで県下マツダグループの完全統合となります。
平成18年にドライバーズMPV、平成20年にビアンテ、を発表。
平成23年3月、全世界に多大な影響を及ぼす東日本大震災が発生。
その6ヵ月後の平成23年9月26日、神戸マツダは創業70年を迎えました。
社内の出来事は、4店舗での363日営業の実施、新車累計販売台数80万台突破、東日本大震災の影響によりマツダが生産を一時ストップしました。
我々も、お客様も待ちに待ったスカイアクティブ・デミオが震災影響によるサプライ・チェーン問題で約1カ月遅れの発売となりました。
私たちは創立80周年を迎えるに当り、過去を振り返えるとともに、現状の自らの姿を正確に認識し、さらに将来のあるべき姿を創造するために、どうあるべきなのかを時間をかけて考え続けてまいりました。
結果、お客様、パートナー、従業員とその家族、地域、社会環境、これらの5つの幸せを目指し、一歩一歩、階段を上り始めようとしています。
以上、80年の振り返りとさせていただきます。